JR飯田線小坂井駅周辺の踏切

Ka19a 小坂井駅ホームからの北向き(豊川方向)の写真でホーム端の踏切とその先80mの黒い車が通る踏切が並びます。この後者の踏切が旧東海道で、この先100mを国道1号線がアンダーパスで線路を横切っています。
ここは愛知県小坂井町で豊橋と豊川に挟まれた町で、旧東海道の道筋ですが宿場町ではなかったようです。
Ka19b 駅を下りて線路沿いに300m南に進むと飯田線の上り線の踏切があり、それを渡った50m先の下り線踏切からの南向き(豊橋方向)の写真です。立体交差する上の線路は名鉄本線の下り線です。このガードを抜けた飯田線の下り線は名鉄本線の上り線と合流し、さらにその先で東海道線に並行して豊橋駅に向かいます。また飯田線の上り線は写真の高架の名鉄本線の下り線と300m左で分れています。
要するにここから豊橋までJR飯田線と名鉄線は複線の線路を共用しています。
Ka19c_3 飯田線はかっては私鉄の豊川鉄道でした。それを名鉄が合併し豊橋、豊川乗り入れを果しましたが、戦時中に豊川鉄道の線路が国有化されて飯田線になりました。飯田線は豊川鉄道からさらに内陸へつながる私鉄の鳳来寺鉄道、三信鉄道なども同時に国有化して中央線辰野駅へ接続した路線です。
写真は豊橋駅の2、3番線ホームです。右の1、2番線が飯田線、左の3番線は名古屋への名鉄線、さらに左の4番線以降は東海道線と新幹線になっています。線路が共用なのでJR豊橋駅の中に名鉄のホームが間借しています。
豊橋駅から名古屋までは、名鉄49分の1080円、東海道線47分の1280円、新幹線こだま29分の2230円です。安い名鉄が一番利用者が多いようです。

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名鉄本線東岡崎駅東の踏切

Ka18b 東岡崎駅は岡崎市の玄関口ですが、JR東海道線の岡崎駅があり岡崎城の東1kmに位置することから東岡崎駅の名前になっています。
上はホーム東端からの東岡崎駅東の踏切の写真で、左側にある駅前通りから右の文教地区の住宅地に入る踏切です。
東岡崎駅は河岸段丘の高台側の縁にあり、低地側になるホーム西端からは線路は高架になります。
Ka18d 駅から高架沿いに150m進んだ幹線道路のガードです。この道路の2.5km先(南)がJR岡崎駅で駅周辺は岡崎市の副都心に相当します。
Ka18e ガードの後方(北)150mが乙川の橋でそこから下流の対岸の写真です。
左手の森は家康出生の地の岡崎城のある公園で、対岸一帯が岡崎市の中心街になっており、旧東海道は城下町だったここを二十七曲の屈折で通っていました。

大正時代に木曽川の電力開発に成功した福沢桃介が、その電力を利用するため名古屋~豊橋間の東海道電気鉄道の免許を得たのが名鉄本線の始まりです。
会社名からわかるように彼はこの鉄道を東京まで延長する野心を持ち、三菱、三井と並ぶ財閥だった安田善次郎から資金的なバックアップの確約を得ていました。
当時の国鉄東海道線は汽車(SL)で遅くて煤煙が汚く不評だったので、電車による高速で快適なサービスを目指したのです。
しかし安田が大磯の別邸で暗殺され夢を絶たれた福沢桃介は、自らが社長も兼ねていた愛知電気鉄道に東海道電気鉄道を合併して、常務の藍川清成に社長を譲りました。
財界の鬼才と呼ばれ気宇壮大だった彼には豊橋までの電車には興味を失ってしまったようです(野性の人々:城山三郎)。
後任の藍川清成はすでに完成していた神宮前~有松に東海道電気鉄道の路線を接続し、今の名古屋~豊橋の名鉄本線を完成させました。

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名鉄知立(ちりゅう)駅東の踏切

Ka17a 踏切が2つ並ぶ知立駅東の踏切の北向きの写真で、手前が三河線の踏切、15m先が名鉄本線の踏切で、その左手が知立駅前広場です。
さらに150m先が昔の池鯉鮒(ちりう)宿のあった旧東海道との交差点で、今は商店街とマンション地帯に変貌しています。ここから1km東へ行くと松並木があり、旧東海道の面影をとどめています。
Ka17c 三河線踏切からの右(東)方向の写真で、線路が左右に分かれています。左は本線のガードをくぐってトヨタの本拠地の豊田市へ、右はJR東海道線苅谷駅を経て臨海工業都市の碧南(へきなん)市への線路です。
かっては三河線は別会社で本線のガードの場所に本線と接続する知立駅がありましたが、名鉄と合併して今の場所に知立駅が移設され、旧知立駅は三河線だけの三河知立駅となりました。
Ka17b 知立駅前広場の写真です。駅前のロータリの植込みに「連続立体交差を早期に実現しよう」の立て看板が掲げられていました。
なお知立駅の3本のホームは地下道でつながっていますが私鉄では珍しく駅裏の南口がなく、線路南側の電車の利用者はこの2つの踏切を渡る必要があります。

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名鉄本線有松駅西の踏切

Ka16a 上の写真は有松駅前再開発で改修された踏切で、車線の踏切が分離されており両側の広い歩道用とあわせ4個の踏切遮断機からなっています。踏切の右側はホームの端に接しています。
踏切の上の道路を渡る歩道橋は右50mにある新しい橋上駅の歩道デッキにつながっています。
踏切の先の大きなビルは再開発でできたイオンのSCです。
ここは名古屋市の南東の丘陵地帯が広がる緑区ですがその丘陵の宅地化が進み、踏切の道路は線路の南北の新興住宅地をつなぐ車の多い道になっています。
踏切の後方(南)80mは旧東海道との交差点で、その通りには白壁の塗ごめ造りと木の縦格子の民家が並び、昔の有松宿の姿を今も留めています(下の写真)。
Ka16b
東海道53次は名古屋の熱田から東へ鳴海、知立、岡崎と続きますが、有松は鳴海と知立の間宿で名産の有松絞りを求める人で賑わいました。
今もこの通りの民家の多くは有松絞りを扱う商家ですが新しいファッションとして見直されているようです。
名鉄本線は旧東海道沿いを走っており、織田信長が今川義元を破った桶狭間の古戦場跡は東隣の中京競馬場駅のすぐ傍です。

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名鉄知多武豊駅北の踏切

Ka15a 上の写真は名鉄知多武豊駅北の踏切の南向きで、踏切の右(西)は一方通行のY字路の車の多い踏切です。
Y字路の先にある武豊町役場前の駐車場がロータリーの役目になっており車はスムーズに流れています。
線路の先はすぐ駅で線路右側の西口前にはスーパーとパチンコ屋、左側の東口には日油の大きな工場があります。
踏切の道を左に400m進むと下の写真の金網で構内が仕切られたJR武豊駅です。更地の左側には新しい住宅が並び、右側の先には今はホームに線路が1本だけの駅が見えます。
かってはここから後方(南)へ1kmの港まで線路は伸びていました。今は港は埋立てられて発電所になっています。
Ka15b
明治16年に国は東京~大阪間の鉄道を岐阜~高崎の中山道ルートにすることを決め、明治17年には東は上野~高崎、西は琵琶湖の水運も利用して神戸~大垣~岐阜が通じ、その資材運搬用を兼ねた大垣~四日市の鉄道建設が決まっていました。
鉄道局長官の井上勝はこの四日市への路線を岐阜~名古屋~大府~武豊に変更することを政府首脳に主張し、了解を得たので明治19年にこれを開通させました。
ここでさらに井上は内陸の中山道ルートを海岸線の東海道ルートへの変更を申し出て、国の承認を得ました。そして大府~横浜を単線狭軌鉄道でしたがわずか2年5ヶ月で完成させ明治22年7月に待望の東海道線が全通しました。
井上は私鉄の日本鉄道や山陽鉄道などの監督者でもあり私鉄にも建設を急がせました。
当時日本の軍部は敵を国内で迎え討つことから国外に討って出る作戦に変へ、陸軍と海軍の連携が必要でした。
そこで武豊線が開通した翌年の明治20年に、武豊に天皇をお迎えして陸軍と海軍の対抗戦が行われました。
また東海道線が開通した翌年の明治23年に今度は隣町の半田に天皇をお迎えして、陸海軍をそれぞれ2分した東軍と西軍による日本で最初の大演習が行われました。
陸軍の兵士の輸送には鉄道が使われました。
当時の政府首脳の伊藤博文首相、井上馨外相、山縣有朋陸相は井上勝と同じ長州人で、青年時代のこの4人は大村益次郎の弟分にあたる維新の志士の仲間でした。
大村益次郎は西郷隆盛と並ぶ明治維新のリーダーで靖国神社の彼の銅像は有名です。
明治27年に日清戦争が起こりましたが、この時には青森から広島まで1本の線路でつながっており広島宇品港から大陸への兵員輸送にこの鉄道が貢献しました。そしてその勝利で欧米の列強国に肩を並べる一流国に日本がなりました。

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名鉄河和線知多半田駅北の踏切

Ka14a 上の写真は橋上駅の知多半田駅の裏側を通る幹線道路からの駅方向(南)で、写真の歩行者専用踏切を左(東)に渡ると再開発事業が完了したばかりの下の写真の知多半田駅前広場にでます。
Ka14c
半田市には明治19年に東海地方で最初に開業したJR武豊線半田駅がありますが、ずっと単線のSL運転で不便だったので地元の有志で45年後の昭和6年に知多鉄道を開通させ、それが名鉄に合併されたのが河和線です。
それまで半田市の玄関口だったJR駅がいつのまにか名鉄駅に移動し、知多半田駅前は戦後アーケードのある商店街として栄えてきました。
しかし車社会の到来でその衰退に危機感を持った商店街は平成7年に知多半田駅前地区市街地再開発組合を立ち上げ、商業施設やマンションなどの高層の複合ビルを駅前に建て、駅前通りを歩道の広い歩行者優先の街並みに一変させました。
その駅前通りを東に400m進むとJR武豊線の狭いガードにぶつかり(下の写真)、名鉄駅前の再開発はここまでになっています。
Ka14b
写真左に見えるのはJR駅の跨線橋で現存する日本最古のものです。ガードも改修されていますが武豊線開通当初からのもののようです。
ガードの先はだだっ広いJR駅前広場でそこからさらに東へ、市役所やミツカン酢の本社工場などのある旧市街への広い車道が延びています。
JR線には高架化の構想が以前からあって、それがいつまでも実現せずそのために反ってJR駅前の再開発が遅れてしまいました。
電車の数では圧倒的に多い複線の名鉄線に先立って、単線で気動車のJR線の高架化を進めるのは大変のようです。

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名鉄太田川駅南北の南北の踏切

Ka13a 知多半島の付根にある太田川駅は半島西岸の中部国際空港への常滑線と半島東岸の河和線との分岐駅です。
上の写真は駅の南の踏切で手前から複線の常滑線と河和線の線路が並び、左が太田川駅です。
写真の看板にあるように駅の高架工事のためこの7/14で車が通行禁止になりました。
下の写真は駅の跨線橋からの北向きでホームの先に北の踏切が見えます。こちらの方が道幅も広く駅前は小さな商店街になっています。
左側が更地になっていますがこちらに線路を移動させてから、今の駅を3階建ての高架にして2階に常滑線と河和線の2面4線の上りホーム、3階に1面2線の下りホームができます。
Ka13b
ここは名古屋市の南に隣接する東海市ですが、太田川駅を市の玄関口にするため駅周辺の再開発も合わせて実施中です。
常滑線は明治末に後に名鉄初代社長になる藍川清成などの運動でできた愛知電気鉄道が始まりで、東京で甲武鉄道(JR中央線)と川越鉄道(西武新宿線)の立ち上げに成功していた岩田作兵衛に社長の就任を依頼しました。
彼は東京日本橋の呉服商から私鉄経営者になった人で、まだ前例のなかった私鉄事業を商人の感覚の創意と工夫で取り組みました。
甲武鉄道の建設では新宿の街道に立って往来する人を数えて需要予測をしたり、出願書に必要なルートの測量を一日だけ専門家に技術を学んで、あとは自分で測量する能力の持ち主でもありました。
用地を無償提供してくれた土地に駅を造ったり、協力者に駅前の商業権を与えました。
常滑線の建設でも用地取得が困難とわかるとすぐ、名古屋へのルートを変更して東海道線の東側から西側にしました。
また電燈のなかった知多半島に、電車の電気を一般家庭に配る事業で収入を増やし、愛知鉄道を成功させました。

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名鉄神宮前駅北の踏切

Ka12a 神宮前駅は名鉄の本線と常滑線が分岐するターミナル駅ですが、駅の北側に珍しい踏切が残っています。
上の写真は駅東口側からの踏切ですが、こちらから本線、常滑線、JR東海道線の複線の線路が併行しており、名鉄は線路3本と1本に区分した2個の踏切にして、JRと合わせ合計3個のロープ式踏切が並びます。
踏切のロープは3つの踏切が開くときだけ高く上がって車が通行でき、どれか1つでも遮断中の時は他の踏切は目の高さまでしか上がらず、人と自転車だけが通行できます。
写真は3つの踏切の2つ目が遮断中で、車は1つ目で人は2つ目で踏切待ちしている状態です。
3つとも開いて車が通れることは滅多にありませんが、それでも遠回りするのが嫌なのか車が1台待っていました。
下の写真は踏切を渡って50m先の広い通りとのT字路からの南向きで、通りの左のビルは駅西口のある名鉄デパート、右の森は熱田神宮の広い境内です。
ここから後方(北)300mにJR熱田駅があり、その上に車用の陸橋があります。また、この先(南)1kmに旧東海道の熱田宿から桑名宿への七里の渡し跡があります。
名古屋(熱田)~桑名間には木曽川、長良川、揖斐川の大河があったので、この区間には明治初期まで陸路がなく、船旅になりました。
旧東海道の旅人はこの船の待時間に熱田神宮で長旅の安全を祈願しました。
Ka12b

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近鉄名古屋駅南の踏切

Ka11a 上の写真は近鉄名古屋駅南の踏切からの北向きで、線路は左にカーブしながら下り坂になります。その先に地下トンネル入口があり、その上を白くて長い新幹線電車が走っているのが見えます。トンネルに入るとすぐ地下の近鉄駅です。
線路の右はJRの車庫、左は近鉄の車庫でこの踏切は車庫への出入用です。
遠くの超高層ビルは左から2棟のJRタワーズ、ミットランドスクエア、スパイラルタワーでいずれも名古屋駅東口に最近完成したもので、名古屋の現在の活況を象徴しています。
踏切から線路沿いに200m進むとJRのガードでそこを抜けると地下に入る名鉄線の陸橋です。
下の写真はそこからの南向きで、右側の草叢は土盛りの高架のJR線、左のコンクリート壁は名鉄ビル3階にあるバスセンターへのアクセス道路です。
名鉄線はここから地下トンネルで、この後方がすぐ名鉄ビルの地下にある名鉄駅です。
今の高架のJR名古屋駅は昭和12年に完成した2代目で、初代の駅は今の名鉄ビルの場所にありました。
Ka11b
昭和2年に鉄道省から近鉄入りしていた種田虎雄(おいたとらお)は、名鉄をさそって初代駅の跡地の払い下げを受け、その地下に今の近鉄駅と名鉄駅を造りました。
名鉄はこの払い下げから今の枇杷島~名鉄駅~神宮前の新線建設を始めました。
鉄道省内には払い下げは競争相手の私鉄を利するだけだと異論もありましたが、種田は国鉄・私鉄の区別ではなく一般市民の便益が問題なのだと主張し、鉄道省の後藤佐彦工務局長の協力を得て、この困難な仕事を実現しました。
種田の近鉄への移転は現在批判の多い天下りではなく、金森又一郎近鉄社長が自から種田に嘆願したトップハンティングでした。
種田は金森の後任社長となり近鉄を日本一の私鉄に育てあげました(種田虎雄伝:鶴見祐輔)。

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JR、近鉄富田駅の踏切

Ka10b JR四日市駅の2つ北隣が富田駅で上の写真は駅の南にある踏切からの富田駅です。左の2本の線路は複線のJR関西線で、中央の1本はローカル私鉄の三岐鉄道の貨物線で、すぐ先で線路が広がって貨車の入換ができる広い駅構内になっています。
三岐鉄道は25km北西の岐阜県境に近い藤原岳の豊富な石灰石を利用したセメント輸送のために造られた鉄道です。
踏切の右手には東洋紡の工場跡地を再開発したイオン北四日市SCがあり、車の多い踏切になっています。
正面に長い跨線橋が見えますがその両端に西口と東口があり、かっては西口は近鉄への乗換客で東口は東洋紡の社員の通勤で栄えましたが、今は何もありません。
下の写真はJR富田駅から300m西の近鉄富田駅の北の踏切で、手前に狭軌単線の三岐鉄道線、奥に複線広軌の近鉄線が並びます。
近鉄線三岐鉄道線はともにこの400m左でJR線を立体交差しており、三岐鉄道線はさらに300m先で再度JR線を立体交差しています。
踏切の向う(東)がJR駅のある旧市街ですが新しい街がこちら側(西)に広がってきているため、写真右手に現在、西口の駅舎の工事中です。
Ka10a
かって三岐鉄道は電車も貨物と同じにJR富田駅に乗入れていました。しかし関西線に接続する電車がなく大半の乗客が近鉄駅まで歩いていたので、三岐鉄道は巨額の投資をして近鉄駅への乗り入れを果たしました。
戦時中、鉄道省は鉄道輸送の緊急体制として全国の私鉄各社の統合か国有化を計画し、三岐鉄道も鉄道省に呼ばれました。
その時の私鉄の監督局長は佐藤栄作ですが、三岐鉄道はその計画に必死に抵抗したので局長が折れ、三岐鉄道は今に残ることになりました(三岐鉄道50年の歩み)。
戦後、沖縄返還を果たした佐藤首相の役人時代の逸話ですが、佐藤局長は35年前に国有化した関西線の悲惨な実態から、それに接続する三岐鉄道の統合や国有化は無意味だと判断したのかもしれません。

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